今年の最後にこれだけは年内にまとめておきたいと思い、お蔵入りとしていた下書きを引っ張り出し、今年5月の記憶を辿って書いてみました。
仙台国際ハーフにエントリーしたのが2月のこと、参加するきっかけとしてレース翌日に震災遺構である旧荒浜小学校へ訪れてみたいとの計画から始まりました。
仙台観光なら秋保温泉や松島が有名ですが、この機会に荒浜地区に行かなくてはならない気がどうしてもしたのです。
2011年3月11日東日本大震災、当たり前が当たり前ではなくなった日、そして私は一生忘れることがない日です。
ここまでの人生を振り返ってみて詳しくは述べませんが、原発事故を誘発したあの日が人生最大の分岐点でした。よって津波の被災地に行ったら実際どんな感情になるのか?不謹慎ながらそんな興味が湧いていました。
マラソンを通して非日常的な体験は沢山してきました。でもそこ自体が非日常的な場所への訪問はあまりありません。確かなことは、ここに来て何かを感じない人はいないはずです。
荒浜地区
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予定変更
レース翌日月曜日は1週間前から雨予報でした。レース当日 (スタート前23℃) に降れば気温低下でもっと走りやすかっただろうに、と宮城でも雨男っぷりを存分に発揮している自分が嫌になってしまいます。
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起床後すぐに雨雲レーダーを確認すると、午後にかけてしばらく土砂降りは避けられそうにありません。バックパックや着替えなどロング走の準備はしてきたので、あとは意を決してこの強い雨の中へ走り出すだけでした。
予定ルートは東北・みやぎ復興マラソン(公式サイト) のコースを辿って荒浜小学校へ、その後南下して仙台空港へ向かう予定です。
空港内にランニングステーション (公式サイト) の存在を知り、そこでシャワーを浴びてリセット後に電車で仙台駅へ戻り新幹線で東京へ帰ってくる計画です。
土砂降りでも雨の中ゆっくり走って巡ろう計画だったのですが、前夜に宮城の美味い魚介と銘酒に酔いしれた結果、朝からテンションと気温の低空飛行に日和ってウォーキングへ変更することにしました。
五色沼はフィギアスケート発祥の地
(国際センター駅)
旧荒浜小学校へ向かう
青葉城跡
20年ぶりの仙台ですからまずは政宗には会っておこうと、チェックアウト後は真っ先に青葉城へ向かいました。
昨日走ったコースを辿ったりしてレースを振り返りながら、青葉城跡へ登っていくのですが雨の影響で足元はすでにビショ濡れです。
前日走ったコースの8km付近
すでにスピード感なしだった
その後国際センター駅から地下鉄東西線に乗り、終点の荒井駅へ20分ほどで到着。荒井駅からは震災遺構旧荒浜小学校行きのバスがあります。
時刻表をチェックすると1時間に1本の本数です。なんと次のバスが50分後、どうやらバスは出た直後らしいのです。
この日は夕方の帰りの新幹線まで余裕があり、旅感を出すためスマホと距離を置き、時間には極力縛られたくなかったので電車もバスも時刻表チェックはしていません。その時に来た乗り物に乗るだけのぶっつけで1日を送ります。
失礼ながら時間を潰せる施設は荒井駅前には皆無、それならば徒歩があると思ってキョリ測で荒浜地区までの距離を調べます。
荒浜小学校まではおよそ4.7km、キロ10分ちょいの早歩きなら次のバスをここで待つより目的地へ早く着きます。こういった計算ができるのはランナー冥利に尽きるというものです。
東西線荒井駅から旧荒浜小学校までバス移動
胸が痛い
東北最大の繁華街で賑わう仙台駅周辺から、直線距離で10kmにも満たない場所が荒浜地区となります。
ランナーなら1時間も走れば到達する場所、そこが大津波に襲われたのです。仙台市内の犠牲者は約900人、この荒浜地区では約190人の方が亡くなりました。
荒井駅から歩いて向かうこと50分ほど、かさ上げされて造成された東部復興道路が徐々に近づき荒浜小学校が姿を現します。
旧荒浜小学校
間違いなくここで沢山の人が亡くなりました。そう考えると荒浜小学校が見えてきた頃から13年前のあの時と全く同じ感情が蘇ってきました。
殺伐とした荒野と復興道路、そして震災遺構の荒浜小学校を前にして、浮かれた気持ちや観光気分がゼロになりました。
普段見せない強張った表情をしていることが自分でもわかり、感情が崩壊するくらい胸が締め付けられてきます。
今こうして年末にぬくぬくした部屋でパソコンを目の前に作業していても、この5月のある1日は強烈に記憶に残った時間と場所となりました。
でもでもそれは私のこと、小学校前まで来た時にまたしてもやらかしたことに気付きます。
月曜休館日
資料館となっている校内へ入りたかったのは山々ですが、外観からでもその津波の爪痕は確認できました。
津波の爪痕
※来年2025年3月末には開館日に家族と共に再訪決定、その時は校内の詳細を報告します
海の方へ
もう一つの震災遺構
荒浜小学校から数100m離れた海側にもう一つの震災遺構が存在します。
住宅の上物は波に流され基礎だけが残り、あの日までここに住宅街が広がり人の営みがあったことを伝えています。
津波の強力な破壊力
そして「荒浜記憶の鐘」というモニュメントと慰霊碑の2つに、自然と引き寄せられるように向かっていきました。
休館日だったからか周りには人影がなく、新たに建設された巨大堤防のため海は見えないのですが、その奥から漂う大きな波音だけが聞こえ私を包んでいます。
荒浜記憶の鐘
鐘までの13.7mはこの地を襲った津波の高さ
慰霊碑
静かに手を合わせて鎮魂の祈りを捧げます。
そして心を落ち着かせてから堤防の向こう側、未だ姿を見せない海の方向へ歩き始めました。
津波で傾いた松
海へ向かう時はいつだって胸踊る瞬間です。なのにこんなに心が重いことはかつてありません。
江ノ島で見る華やかな風景の対局、かつては海水浴やサーフィンで賑わった砂浜ですが、今ここに自分以外ひとっこ1人いません。
なんて物悲しい風景なんだろう、勝手に目頭が熱くなりました。
途切れた消波ブロックから流れ来る波を見ていると、この景色にとてつもなく異質なものを感じます。ここが地の果てのような錯覚さえ覚えました。
この海を目の前に心の底から湧き出た気持ちがこれでした。
これからの自分
震災遺構・荒浜地区住宅基礎
震災から13年半、当時幼稚園に通っていた娘は、小学生からコロナ禍を経て女子高生に、それだけの時間が流れたのです。
当時目標を失った自分が打ち込んだこと、それがフルマラソンでこの13年間はマラソンにどっぷり浸かった年月でもあります。
何かに導かれるように仙台国際ハーフを走ってみようと思い付いたことも、この震災遺構を訪れたいと思った衝動も、当ブログ内で幾度と書いているように、今生きている実感を改めて確かめたかったからではないかと思います。
荒浜の歴史
ランニングはその行為そのものが生きている証であり、資本主義中心の中で生の営みを日常から取り戻す行為だからこそずっと継続できているのだとこの荒浜地区で確信しました。
荒浜を訪問してから半年が経ちますが、あれ以降富士山へ登った日も、猛烈な暑さの中走った日も、ポイント練習している時もずっと荒浜でのことを胸に走ってきました。
改めて走る決意表明のために荒浜へ来たのだと思います。行き詰まった時、つらい時はこの日をふと思い出したいと思います。
ややもすると時折忘れそうになる生命の尊さですが、2025年以降も1秒たりとも生を無駄にしてはならない想いで駆け抜けたいと思います。
今年1年間少ない更新の駄文にお付き合いいただきありがとうございます。読んでいただいた方にとって素晴らしい2025年になることを心から願っています。
良いお年をお迎えください。
2024年12月29日